昭和57年5月1日 月次祭
秋田健一郎
「大きな信心をしよ」と、「迷い信心ではいかん」。
大きな信心、迷い信心ではいかんのです。そこに一心と定めた信心。しかも、それが大きな信心に、お育てを頂かなければいけません。はじめから大きな信心ということはない。やっぱり、段々、段々、大きくなっていくのです。
ただ今、ご祈念中に後の方で赤ちゃんが泣いていましたね。私は、どんなご祈念をしよっても、例えば、あの、赤ちゃんの泣き声が聞こえよっと、ご祈念を止めて「どうぞ、赤ちゃんがむずがっとります。何か、どこか苦しいところがあるだろうと思いますから、どうぞ、楽にならして下さい。」と言って願います。
願ったら、すぐ泣き止みましたようでしたね。どっか、後ろで、赤ちゃんが泣いてたでしょう。ご祈念中。
だから、大きな信心と言うのは、もう、天下国家のことを祈るとか、願うと、まあ、言うことでもありますけれども、また、その反面、それこそ、水も漏らさぬ信心になっていかなければいかんのです。
三代金光様が、或るご信者に「今、上を飛行機が飛んでおりますな。」と、ね、「今、そこで赤ん坊が泣いておりますな」と。「私は、あの、飛行機の爆音を聞くと、『どうぞ、あの飛行機が無事に目的地に着いて、御用を済まして無事にまた帰られますように』というて祈りますのじゃ」と。「赤ん坊がむずがって泣いておったら、言わば、『その赤ん坊がむずがっておる。苦しんでおる。それを楽にして下さい』と言うて願いますのじゃ。」と仰せられたそうですが、段々、信心をさせて頂いておりますとね、そういう、言うなら、天下国家のことを祈らせて頂きながらも、また、小さい、本当に些細なことにも、ね、おろそかにしない、祈れれる信心。ね。
大きなことだと言うて、大きな袋から、言うなら、おかげが漏ってしまったんでは、ね。ですから、まあ、言い換えますと、大きな信心とは大きなおかげの受けられる信心ということになるのじゃないでしょうか。ね。
お互いが、一つ大きなおかげを頂きたいと思うんです。
まあ、今朝も、今日もこうして、えー、1日のお祭りをさして頂きました。
まあ、それこそ沢山なお供え物の中に、様々なお供えが、それこそ御神前狭しと、こう、お供えになりました。
あれは、全部、神様が私に下さるんです。ね。私があれを全部使いこなす、頂きこなすことは出来ませんのだけれども。ね。もう神様が限りなく、言わば、無尽蔵におかげを下さるのです。
私は、今日、新たなことを分からせて頂いたんです。と言うのは、今日、午後の奉仕の時に、椛目の池尻が、ここに、経理を承っておりますので、えー、ここの会館が6億の、で、あのー、信徒会館が出来ました。それを、もー、こう4年目でしょうか、毎年、毎月1千万づつ払って、今日まで参りました。今日、聞きましたら、後がもう9千万円になりました。でも、50万、百何十万払ってましたけれども、もう今月は50万で良かったということです。
ところが、私が今日、あのー、私が思っておったんですけれど、先月はご大祭でもあるし、沢山、お供えを頂いておりますから、あー、「今月は千五百万位払いが出来たなあ。」と思っておりましたら、1千万しか払わなかったと言うんです。それもギリギリだったんですと、こう言う。
それで、あんまり沢山、いろいろ。あー、言うなら、「経費が来とりますから、明細を書いて持ってきましょうか?」と。「いや、そんなことは要らんけれども、まあー、そりゃ、百万払うよりは二百万、二百万払うよりも三百万の、言うなら、経費でも払えるようになることが、おかげだと思うとりましたけれども、今度ばかりは私はちょっとこう、ほー、七百万も、なら、経費がかかったのかと、ここでは、そういう、ま一つの運営費というものがね、教会の、かかってるんです。
千八百万近くのお金が、一月に頂けておるんですけれども、払う、銀行に払ったのは、いやー、一千万と利子だけである。と、やっぱ、あまり毎月変わらない。
私は、だいたい、始末・倹約ということはあんまりしませんから。ただ、神様の御物を、必要でない時に、ね、ただ、それをうかつに使うことは私は許せない感じがします。私のここで使っておる鉛筆には竹の管がこん位になるまで使います。
もう、私はここでメモするのは、全部、ここに、あのー、まあー、要らない紙を貯めておいて、それに書きます。ね。
もう、そりゃ、例えば電気でもです。それはこんな、例えば、あの百万燭光の電気を使うても、必要な時なら有難いと思いますけれども、無駄なことに、言わば、忘れておったとかね、点けっ放しにしてあるといったようなことは、なんか神様に対して相済まん気が致します。
でも今日は、沢山な経費なら経費を払わせて頂いたということを神様にお礼申さして頂いておりましたら、「天地への還元」と頂きました。
私は、今日はね、実は、天地の、天地の還元というのは、あのー、昔、篤農の例えばお百姓さんなんかは、そのー、藁を全部、天地に還していて、肥料は要らん位だ。藁を全部、天地に還していくんだと、天地に還元していくわけですね。ですから、また、豊穣な稔りを頂くことが出来るというわけなんです。
私どもが神様へ、例えば、お供えをさして頂くといったようなことは、これは間違いなしに天地に対する還元、真心を持ちつつ、謹み、喜びを添えてのお供えとこう仰るんですがね。
皆さんが謹みが無くても、または、あー、真心が無かったに致しましても、ここで御取次をさして頂く以上は、それを、そのお粗末である、ご無礼であるところはお詫びをさして貰うて、お供えをさして貰いますから、間違いなく天地に対する還元になってるんです。
以前は、それが私が出来ませんでした。これは、もう30年も前の話でしたけれども。ちょうど、お月次祭に山本から参って来た方が、あのー、パンをお供えしました。それに、蕨をお供え。ところが、神様にそれをお供えさして頂こうと思うたら、どうしても、そのパンの方がお供えにならんのです。お許し頂かんのです。
どうしたことじゃろうかと思うたら、それが、もう、「もう返してやれ」と神様が言う。だから、「これはね、蕨だけをお供えさして貰うばってん、このパンの方は、これはもうお供えせんで良かつよ。」と言うて返しましたら、「どうしたことでしょうか。」と、こう言うんです。
「さあ、私にも分からんけれど」と言ったら、「もう本当に、親先生、恐れ入りました。」と言うんです。
と言うのが、今日は山に蕨採りに行った。沢山採って来たから、「『今日はお月次祭だから、蕨のお供えをさして頂こう。』と思うて、その、持って来寄りましたら、主人が『たった、それだけの蕨だけの。お前、そりゃ、パンか何か買うちから、添えちからお供えしたらどうか』ち、こう言うた。自分もお供えしようと思たろうばってん、主人が言うけん、「そんならパンを買うちから、これに添えて行こう」。それが、神様の気感にかなわん。ね。
だから、真心を込めた物の蕨の方だけは受けるけれども、パンの方は神様が「もう受けん」と、こう仰られる。
これは、30年前の話ですけれども、今は皆さんが、どげん不浄の付いとるお供えをしても、私どもの方でね、お詫びをしたり清めたりしてお供えをしますから、これは、もう合楽に皆さんがお供えをなさるのは、例えば、お賽銭十円であっても、それは還元、天地に対する還元になっておると、私は信じますがです。それが水道代であり、ね、ガス代であり、電気代であるといったようなもんまで還元になるとは知らなかった。
今日、なら、合楽で今月七百万の言うなら様々な経費を、を払わして頂いた。
これが、神への、いや天地への還元になるためにはです、ね、そこには、謹みと喜びが添えられなければいけない。
そこで、なら、「明細を少し、明細をキチッと書いて参りましょうか」と言うけれども、ね、それも見らんでも良いけれども。ね。見ると「これは、お前、使い過ぎとるではないか」と言って不浄付けなならん。
だから、私は、「いや、それは要らんけれども、まあ、五百万払うよりも、七百万も払わして頂けたと言うことは、また、銀行にも毎月の通りに払いが出来たことは有り難い。だから、そのことだけをお礼申し上げていけば良い」という、私は、思いでおりましたら、神様からね、そのー、電気代であろうが、水道代であろうが、ここに、千七百万という金が、そのまま天地への還元になるためには、私の心、そこには喜びが、謹みが。おかげでね、「これだけを払わして頂くということが有り難い」とお礼を申し上げると言うこと。
皆さんでもそうです、お供えをする時だけが真心では無いです。ね。ものごとの場合にはね、もー本当に、要らんことに罰金を取られたりする時にはね、もう、ついて行くごたる時があるです。ね。
けれども、ね、それば、いよいよ払わんならんということが決まったら、これは、もう、天地に対する還元だと。
私は、以前、皆さんが遠方から参って来ますとね、「汽車代、バス代使うて参って来ますけれども、それは神様へのお供えと思いなさい。」と、私は言うとりましたけれども、電気代まで水道代までも、神様が天地が受けて下さるとは知らなかった。
問題は、こちらの払い方次第である。ね。
電気代が、去年、先月が千円であったら、今月は二千円の電気代であると言うならば、それだけ沢山な電気代が払えるということに、お礼を申し上げるような生き方になる時に、それは天地への還元になるということであります。
だから、出し惜しみとかね、「惜しい、欲しいをとれば」と四神様が仰ったということですが、ね。「『惜しい。欲しい。憎い。可愛い。』をとれば楽じゃ」と仰ったそうですが、どんな場合であっても、言わば、有り難いという思いを添えての、例えば、神様にお供えするためだけのことではない。ね。普通の、それが支払であろうが、言うならば、利払いであろうが、借金払いであろうが、ね、それを、こちらの心次第でそれを、ね、天地への還元、神様が受けて下さるものとして頂くことが出来る。
それが沢山出来るようになるから、言うなら、沢山の肥料を施すから、沢山の物が出来るということになるのではないでしょうか。
「天地日月の心」と合楽で言われます。
「天の心」とはね、限りなく、ね、言わば、麗しの心。与えて与えてやまぬ心。しかも、無条件の心。そういう心を本気で目指さして貰う。ね。
「土の心」とは、それこそ、受けて受けて受けぬく心。しかも、黙って受ける心。いや、有り難く受ける心ということです。
今日、或る方のお届けをさして頂いておりました。もう、「何と腑が悪い」と言う。とにかく、その「腑が悪い」と、大体、言うとじゃないですけどもね、これは、あのー、従業員が、あの、まあー、言うならば、良くない。良い従業員がなかなか。「これは」と思いよったところが、反対に裏切られるといったようなのがある。ね。それで、それを「もう、首にしようか。首にしまいか。」と言ったようなお届けでした。
信心は何でも、言わば、根本的なことろから分かっていかなければ、なかなか教えも行じられないわけですけど。神様に、そのことを私はお取次させて貰いよったら、ね、「大きくなるための特効薬」と頂いたんです。ちと、皆さん、思うて下さい。大きなおかげを頂きたいなら、先ず、大きな信心をしなきゃいけない。大きな信心と言うが、天下国家のことを祈っておりますというのが、大きな信心ではなくて、先ずは、自分自身の心が豊かに大きく育っていくということなんです。
「もう、自分の胸にははばかられない。もう、こげな従業員は首にしよう」と、例えば、思いますような時にです。ね。これが私の人となりについて来るもの。これは「類は類をもって集まる」と申します。
お店をさして頂いても、その亭主が素晴らしいなら、やっぱり、素晴らしい従業員が集まって来るです。私が立派じゃから、ここには、こんな沢山立派な信者さんが集まって来るようなもんです(笑い)。ね。
ですからね、なかに、どういう、例えば、ご信者さんがあって、なら、お道をけがすような、教会のかえって邪魔になるようなそういう信者があっても、「あげな信者は参って来んが良い」といったようなことではなくて、それが私自身を豊かに大きくする特効薬なんだと思うたら、その人を大事にするしかおれなくなるでしょうが。
「あげな奴」と思いよった。は、なら、それば大事にする心、ね、私の過去30年の信心を思うてくる時に、合楽が段々大きく育っていくというのは、私の心が育っていくに従って、言うなら、豊かに大きくなるに従って、豊かに大きくおかげを頂いておるという、言わば、一つの実証なんです。
ですからね、さあ、どんなに理不尽、ね、理屈に合わないです。
そりゃ、もう、「こげな、むしろ役に立たないとは、もう、早く首にしたが良い。」というのが普通ですけれども、それを、もう一つ超えた心で、時点をもって、言うなら、(?)の原さんじゃないけれども、ね、次元の違った世界にドンと座っとれば、一切がね、言うならば、有難いとお礼を申し上げねばならないことばっかりなんだと、こう言うんです。
次元の違った世界、ね。
それが私の信心、私の心なりというふうに頂き方もあるが、それが、いよいよ豊かに大きゅうなるための特効薬であるとするなら、願ってでもそれを頂かなきゃいけんと言うことが、皆さん、分かるですね。
私は、信心が育っていくということ、大きくなっていくということはね、そういう信心を辿らせて頂いて、はじめて豊かに大きくなっていく。ね。
楽とは我が心が大きくなることだと神様がお知らせ下さったことがあります。
楽になりたいと言うならば、先ず、自分自身の心が豊かに大きくなることを願わなければいけません。願うからには、特効薬がそこにあるはずです。大きくなるための特効薬が、そこに、まあ、肉眼で見るとそれが、ね、憎いとか、ね、可愛いとか、うーん、惜しい欲しいとかいったような問題でありましょうけれども、ね、それをなら、私どもが信心でおし頂いて頂くという、言うならば、稽古をさせて頂く、それが実験なんです。
私が、今日、段々おかげを頂いて参りましたのは、今日のご理解にも申しましたが「商売をさして貰うなら、売り場、買い場と言うて、人が十銭で売るものなら、八銭で売れ」。ね。
「体はちびるものじゃないから、働くが良い」というように、御教えがありますけれども、働くのは、出来るだけ楽をして出来るだけ人が十銭で売るものなら、十五銭でも売れる位な腕を持っておるのが商売人の腕のように思うておった。ここ何十年か。
「どうぞ、お繰り合わせを」。商売繁盛を願うでも、そういうような意味の、その代わり、ね、「余分に儲かった分は神様にお供えします。」という、ま、それでも、ま、言うなら、割り切ったドライな信心であった。
何十年間、気が付かなかった。ね。それを、ほんなら、いよいよ「真の信心、真の信心」と、私の心の中に、真の信心を求め続けれるようになって、初めて、教祖の御教えを実験することになった。そして、それが実証となって表われてきて、今日の合楽です。
で、私自身も、実際、なら、金光様の信心を頂いておって、あげなこつで良いかと言われるような商売人でしたけれども。ね。ですから、やっぱり、商売では芽が出ら無かった。ね。いよいよ、いけなくなった。行き詰った。もう、神様のおかげを頂くより他に手は無いというところにに至って、はじめて、神様の心が、少し、少し、分かりだしてきた。
そこで、神様の心が分かりだしたら、これは、ただ神様の心が分かっただけではない、この神様の手にも足にもならせて頂きたいというような念願が段々強うなってきた。言うなら、信心が育ってきた。
これは、私がいつも申しますように、ね、私の信心の、言うなら、真の信心の入口に立ったというのは、勿論、あの終戦ということであって、引き揚げて帰って来た。ね。
それこそ、親に孝行したいばっかりに、一生懸命に、マアー、金儲けしようと思うたけれども、ね、それこそ、体一貫で家族、家内、子供一緒に引き揚げて帰って、その親にお世話にならんならんような結果になった。もう、目も当てられない状態であった。
そこで、んなら、この親にこうこうすることのためなら、もう、それこそ、どんな信心修行もさして頂こうというところから、はじめて信心の向きが真の信心の方へ、おかげ信心から真の信心の方へ、目を向けるようになった。
そして、この神様、この教祖の神様は嘘は一っつも仰ってないということが分かって来た。ね。この御教えを本気で行ずる。だから、今朝から申しますように行ずると言うことはです、人が十銭で売る物は八銭で売る。今までは、十銭の物は十一銭で売るといったような生き方から、三銭も減るならば、あー、そのー、安う売らんならん。なかなか出来ん。やっぱ、度胸が要る。けれども、教祖の神様がこう仰せられてあるのだから、教えてあるのであるからと、それを実験実証させて頂くところから、ね、言うならば、算盤の上に表われてくる利益ではない。それこそ、利外の利とでも、まあ、申しましょうかね。算盤には出て来ないようなはずのおかげが、そこに出て来るのです。
しかも、そのおかげは限りないおかげです。無尽蔵のおかげです。
今、合楽で頂いておる、年々歳々、こうやっておかげを頂いておると言うのも、もうこれでということじゃないです。まあーだ、限りないです。ね。
おかげ信心でおかげを頂きたいというのは、そのー、無理を言うて頂くのは、そこまででしょうが。
けれどもね、教祖の神様のお言葉を信じて、それを行じる。なるほど、行じるとこには、言うならば、やはり、実意丁寧神信心が出来なきゃいけませんが、また、場合には、度胸も要る。場合には「ままよという心になれ」と仰る。「ままよ」とは、死んでもままよのことです。「いや、死にたくないばっかりに、お供えしよるとですが」と言いたいような時もあるのだ。
けれどもね、なら、その「ままよ」という心にならなければ、充分の徳が受けられんと、最後に結んでおられます。
そこでね、いわゆる「ままよ」という、いわゆる、神様を、ま、信じて疑わない力を頂くのは、そういう時である。ね。
今日のご理解の中に「体はちびるもんではないから、ね、働くが良い」とあります。
「はあー、もう、神様にお願いしとるけん、神ながら、神ながら」で楽をしながら、「神ながら、神ながら」といって、そういうような稽古はやっぱりありますね。神ながらの中には。
私は、今日も、それを、ちょうど1月前の4月1日の私の誕生の日に、ね、ここの修行生の方達が勧進帳を出しました。皆さん、ご覧になったとおりです。
今日、さっきから梅山先生がお届け致しますのに「私は昨日は、もう本当、吃驚しました」ち。手嶋さんち言うかな、あっ、竹島さん。踊りのお師匠さんです。が、昨日、たまたま参って見えたから。親先生が座っておりませんでしたから、あのー、「テレビを御覧なさい。」と、あのー、この前、修行生方の勧進帳を「見なさい」と言って見せた。ほうしたら、段々、段々、そのー、こう胸をはったり、もうー、頭をこう、こう振ってから、もう今にも倒れなさるごたる、そのふりをなさる。
「ほー、この人は狂いなさっとるじゃろうか」と思うてね、その梅山先生が言うとですよ。しかも、自分が何とかかんとか言うちから、こうやってやんなさるげなもん。それで、自分もやっとんなさるから。ありゃ、そうです、私どもも、やっぱ、もう、お芝居を見るとですね、何時の間にか、首がこうやって動きよる(会場から笑い)。あー、忙しいこつ。三味線の方も見らんならん。お役者さん。して、こうこう自分は体を動かしよる。ね。
やっぱり、稽古。その、踊りのお師匠さんというのも、やっぱそうだったらしいですが、もう、これこれち言おうごとあったばってん、「はー、もう、こんな、こんなもん見せたけんで、間違いなさったじゃろうかち、私は思いました。」ち、梅山先生のお届けするとです。
そして、見終わってしもうてから、涙をボロボロ流しなさった。「素人さんで、先生もなしに、しかも小道具まで、衣装から小道具まで作られたということを聞いて、もう感動で、もう涙が止まらなかった。」と言うて、お礼を言うて帰られたと言うんです。ね。
そのことを、昨日、私にも、そのお礼を言うて帰られましたがです。ね。そのー、例えば、あの勧進帳のお芝居が、確かに、なるほど、素人は素人ですけれども、素人でもね、あのー、もう素人なりに一生懸命のものでしたから、もう、その上手下手の言えれないように隙の無い、言うならば、あー、まあ、素晴らしかったです。ね。
それが、なら、どうでしょうか。親先生が好きだから。親先生が喜びなさるから、一つ、今度は勧進帳を出そうと言うてです、稽古もせず舞台に立って、あれだけのことが出来るでしょうか。ね。
親先生が喜ぶということに焦点をおいて、なら、あの十数名の者がです、ね。もう一生懸命に稽古をさして貰った。その一生懸命のの真心が、神様を動かした。
そして、これは、とても、二度とこんなことは出来まいと思うような、まあ、言うなら、名演技がね、あそこに、に、まあー、披露されたわけです。ね。
それを神ながらと言うのは、稽古もせんなりに良う出来ますごと、神様の働きを頂きさえすりゃ出来るごたる、こういう考え方はです、間違いです。ね。
だから、今日は、その人ながらと神ながらの、そのー、微妙なところを今日のご理解に、まあ、頂いたわけですけれどもね。
言うならば、今日、私が分からして頂いたというのは、「体はちびるものではないから、働くが良い」と言うのは、そういう神様のお喜びという、言うなら、親の、親の手にも足にもならせて頂きたいという一念が、ね、そこに、一心に稽古される時に、そこに神様の働きが、しっかと受け止めて、言うなら、本当の意味においての、神様と氏子の合作としか思えないような素晴らしい演技が出来たということになるのですから。ね。
あれは1月間の稽古だったそうですけれども。その稽古無しには出来ないということ。神ながら、神ながらと言うことは棚から牡丹餅が落ちるとを「どうぞ」と言うて待つようなものでは無いということ。ね。
そういう、ね、私は、信心には、まあ、デリケートなところがあります。ね。
もう、とにかく、合楽理念の根本は、先ずは、人間心を取り去ることだと、こういうわけなんです。これが根本なんです。
言うなれば、人情を使わんということなんです。
けれども、人情を使わんと言うけれどもです、その人情の中に、ね、「人力にみきりを付けて、神力にすがれ。人力自ずから湧く。」と言う、自ずから湧く人力というものは、無からなければ、言うなら、神様と一体にはなれないということ。そこが真心であり、一心であるということ。ね。
そういう信心がですね、段々、こう、育っていく。ね。
神様の思いに添いたいという願う。、手にも足にもならせて頂きたい、ね、天下国家のことを祈らせて貰う。そのための修行ならいといません。体はちびれるものではないから、一生懸命働くというところが必要です。
ただ、ね、「これからこれまでしときゃ、いくらになるから」というような算盤を持った働きでは、疲れますね。
お百姓してもです、これからこれ、ね、これだけの田んぼをすりゃ、どれだけの収入になる。他人が5時間働く時ゃ6時間働いてというて、まあ、一生懸命働いておる。ただ、そういう意味においての働きじゃないのです。
「体はちびれるものではないから、働くが良い」と言うのは、どこまでも信心による働きなんです。
言うならば、勧進帳、1月間に一生懸命。ね。まあ、稽古をしたということ。
それこそ、前の晩遅うまで、その時は、まあ、監督役で梶原先生が、まあ、どうしても、そのー、リズムに乗らない。台詞が、そこがもう一押しというところが出来ない。もう、とうとう、出来んなりにあくる日の、あのー、誕生際を迎えた。ね。
ところが、あくる日、ここで、梶原先生がね、そのー、その出来映えのことについて話したのですが、「もう、とにかく、出来なかったというところが、願っておった思っておった以上に出来たのは、驚きました。言うなら、神様の働きを頂いておるとしか思えなかった。」と言うて、まあ、お届けいたしましたが、ね。
出来んなりにも一生懸命の、言うなら、真心一心の稽古が出来た。
そこに、いよいよ本番の時には、あのような、それこそ、神様の働きを受けておるとしか思えない。言うなら、神様と、神と氏子の合作的なおかげ。いわゆる、生みなしていかれるおかげが生まれたんです。ね。
神ながらを、だから、まあー、ただ、楽な姿勢と言うかね、「もう、神様にお願いじゃき、神ながらですが」と言うふうに、まあ、これは、私はドライな考え方だと。ね。
だから、神ながらとはドライではない。割り切ったのではない。ね。どこまでも、ね、「氏子信心して」と言われるその信心の内容、実がそこにこもっておって、「体はちびれるものではないから、働くが良い」。「他人が5時間のところは6時間働かして貰おう。」と言うその精進。その精進の焦点はどこまでも、なら、「親先生に喜んで貰いたい」の一念であったのが、あの勧進帳であるように、神様に喜んで頂きたいという一念が、そこにある時に、ね、初めて、ね、本当の、言うならば、おかげが頂かれるのではないでしょうか。
お互いが、大きなおかげを頂きたい。その、言うなら、大きなおかげの願いの内容を、今日は聞いて頂いたと思うんです。
じゃ、だから、先ほども、或る方がお届けをされたんですけれども、お知らせを頂いとられたんですけどもね。
もう、あのー、「もう少し、信心を、あのー、一段と高めていかなければいけないぞ。」というお知らせを頂いておられた。それで、私は、「今日のお月次祭を頂いて、主人がどういうふうに、そのー、お育てを頂くかというところを一つ分からせて頂くといいね。」と言うて、今、話したんですけれども、今日、私が頂きましたように、大きなおかげを頂きたい、大きな信心をしたいようならばです、その大きな心になることのための特効薬が神様が用意されておられる。それを、今までは、「こんなものはいかん。こんなものは嫌い。」と言うておった。そのことを頂くという心になるということ。
それが豊かに大きくなることのための特効薬であるということを分からして頂いて、それが実感としてね、実、それを実験さして貰うて、本当にそうであるということが分かる時に、信心はいよいよ楽しいもの有り難いものということになっていくのじゃないでしょうかね。
皆さん、大きな信心を願わして頂かなきゃならない。それには、もう、ますます、小さい神経を使わして貰うて、なら、子供の泣き声1つでもおろそかにしない。そこを祈らして貰わずにはおれない。
言うなら、神経と共にです、いよいよ願いは天下国家のことが本気で願えれる、大きな願いを持たんとね、修行が苦になります。大きな願いを立てますとね、この位の修行は、もう、当たり前というような感じがしますね。
だから、今日のご理解を頂きますと、いや、むしろ、今までは、それは、そんなことは困る嫌だと言うておったのを、「はあー、これは、この人が、私が大きくなるための特効薬だなあ。」と思えたら、その人を拝まにゃいかん。その事柄を有り難く、おし頂かなければ、いわゆる、「御事柄」として頂かずにゃおれないということになるのです。
どうぞ